賽の神から石坂の集落へと道は続きます。
浦川沿いにある石坂の集落は、明治44年(1911年)の稗田山の大崩落による土石流で壊滅的な被害をこうむりました。
この「稗田山崩れ」は、世に言う日本三大崩れの一つです。
今年は、100年という節目の年にあたっていて、たまたまではありますが、この年に訪れたのも何かの縁があったのかもしれません。
日本は山国ですから、山崩れや土砂崩れの被害は何処でおきても不思議はありません。
つい先日、台風12号が紀伊半島のあちこちで土砂崩れをおこして大きな被害をもたらしたのは記憶に新しいことです。土砂崩れによる天然ダムが発生しその崩壊が
心配ですね。
喉元すぎれば・・・、とか、災害は忘れた頃にやってくる・・・、とは良く言ったもので、記憶にとどめておくことはなかなか難しいものです。
浦川橋のたもとには、「幸田文、文学碑」があり、「稗田山崩れ」の災害を後世に伝えるための記念公苑が設けられています。現場を訪れた「幸田文」は紀行文
「崩れ」を発表しましたが、その記念碑「歳月茫茫碑」などが建てられています。平成4年に建立された「歳月茫茫碑」も平成7年の集中豪雨で流されてしまって、
現在ある「歳月茫茫碑」は平成8年に再建されたとのことでした。いかに、浦川が暴れ川であるか推定できます。
浦川橋から上流を眺めますと稗田山が望めますし、崩れた跡も見えているかのようです。
賽の神から石坂に下る「塩の道」。↓
石坂の集落に出たところ。↓
石坂から見える浦川橋。↓
「幸田文、文学碑」公園。↓
「幸田文、文学碑」。↓
浦川橋。↓
浦川橋より上流、稗田山を望む。↓
今回のおまけは、「日本三大崩れ」について記しておきましょう。
古い順に・・・、
1.大谷(おおや)崩れ、1707年10月
静岡県安倍川水系源流の大谷嶺が宝永の大地震により崩れた。
2.鳶山(とんびやま)崩れ、1858年2月
富山県立山カルデラの鳶山が安政の大地震により崩れた。
3.稗田山(ひえたやま)崩れ、1911年8月
長野県姫川水系の浦川上流の稗田山が突然に崩れた。
概略は以上ですが、もっと詳しく知りたくなった方は「日本三大崩れ」で検索してみてください。
私は「三大崩れ」と知る前に、「鳶山崩れ」と「稗田山崩れ」は行ったことがありました。まったくの偶然です。
「鳶山崩れ」の立山カルデラは、今も立ち入り禁止区域ですが、環境アセスで調査に入ったことがありました。
「稗田山崩れ」は、国土省の浦川の砂防ダムの定期点検で補助員として入ったことがありました。
当時は、業務にのみ気がいってその辺の事情は後で知ったことです。
三箇所とも大量の土砂を防ぐため、砂防ダムが建設されてますし、現在も進行中です。
どのくらいの山崩れなのかというと、例えば立山の鳶山崩れの土砂の量は2億立方メートルともいわれピンときませんが、常願寺川を下って富山平野を埋めた場合、
平野全体が2メートルの高さになるそうです。それだけでも土砂の多さと被害の大きさが想像できるというものです。
台風12号で発生した紀伊半島での天然ダムが決壊したら、同じようなことがおきるのでしょうか。そうならないように、祈るばかりです。
つづく・・・。
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